気仙沼のほぼ日便り

気仙沼の人たちと会っているときに

「震災がなかったら、
 こういうモノやコトはなかった。」

という話になることがあります。
そして、そのあとに

「よかったことは、たくさんある。」

と、つづけることが多いようです。

おそらく、それは、
人と人のあたらしい出会いやつながり、
モノや気持ちの交換を含めたやりとりや、
コミュニケーションのことを
指しているのだと思います。
そしてそのことは、被災地に住む人たちだけが
感じているわけではなく、
被災地とご縁を持ったそれ以外の場所に住む人にも、
言えることだったりします。

たとえば、
ミュージックセキュリティーズの
「セキュリテ被災地応援ファンド」
もともとは、
ミュージシャンを支援するファンドの
運営をしていた会社が、
震災後、被災した「企業」と
それまで接点のなかった「個人」をつないで、
支援する仕組みをつくりしました。
ほぼ日では
「東北の仕事論。」というシリーズでも
おなじみですね。

また、たとえば、
「みちのく仕事」というサイトでは
「東北の右腕募集」というかたちで
人材を募集する企業や団体を紹介をしています。
これは、ボランティアの募集ではありません。
「気仙沼のほぼ日」に、
しばしば登場する「ふじのさん」
この募集によって、気仙沼に移り住み、
気仙沼で働いているひとり。
そこには、人が動くことによって生まれる、
あたらしい仕事の存在があります。

もちろん、
「気仙沼のほぼ日」という
宮城県気仙沼市にある事務所や
このページそのものも、
「震災があって、生まれたモノ」のひとつですし、
矢野顕子さんがつくった
「気仙沼においでよ」という歌も
その中のひとつでしょう。

今回、ご紹介する
「LIGHT UP NIPPON」
そういう「震災があって、生まれたモノ」です。

昨年の夏、夏祭りや花火大会は
相次いで中止となりました。
そのニュースを見て、
なにか自分にできることはないかと、
動き出した、たったひとりの若者と賛同する仲間たちが
地元の人々の協力のもと、同日同時刻に
追悼と復興の祈りを込めて打ち上げた花火、
それが「LIGHT UP NIPPON」です。
昨年は、8月11日に
岩手県宮古市、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、
宮城県気仙沼市、多賀城市、
福島県南相馬市、会津美里市、いわき市の10ヶ所で、
合計27000発の花火が上がりました。

その花火を上げるために
ひとりの若者がはじめて被災地に入った日から、
花火が上がるまでの一連の出来事をまとめた
ドキュメンタリーの映画ができました。

本日7月7日より、新宿バルト9ほか
全国22の映画館で公開されます。
映画の収益は、
今年2012年の花火をあげるための
資金にすることを目的としているため、
映画としては異例の、DVD同時発売もあります。
つまり、上映館が近くにない人も、
DVDで映画を見て
花火を上げるための費用に協力する、
ということもできます。
また、映画を見なくても、
公式サイトから募金をしたり、
オリジナルグッズを購入することで、
この企画を支えることができます。

ほぼ日のあるミーティングの中で、
糸井重里がこんなことを言っていました。

「よろこびは、
 だれかと分かち合うことで、
 はじめて完成するんじゃないかな。」

2012年の夏、
被災地で再び上がる花火を
現地に行って見ることも、
当日、インターネット中継で見ることも、
この企画のために作られた応援グッズの購入や
募金という行為で参加することも、
どれも、みんな、分かち合うよろこびです。

東日本大震災のあった
2012年3月11日から、
もうすぐ、1年4ヶ月が経とうとしています。

たくさんの人で
分かち合うのにびったりの「花火」、
それを通じて、
震災から1年5ヶ月という日を迎える企画に
いろんなかたちで参加できます、
というお知らせでした。
よろしければ、ぜひ!


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「LIGHT UP NIPPON 2012」 開催概要

開催日時:
2012年8月11日(土)19:00
一斉打ち上げ(雨天決行・荒天順延)

内容:
東北を、日本を、花火で、元気に。
昨年に引き続き、東北の太平洋沿岸で、
「追悼」と「復興」の祈りを込めて、
一斉に花火を打ち上げます。

開催予定地:
岩手県 山田町 大槌町 釜石市 大船渡市
宮城県 気仙沼市 石巻市雄勝 多賀城市
福島県 相馬市 南相馬市 会津美里町 広野町 いわき市

公式HP:
http://lightupnippon.jp/
Twitter:
@lightupnippon
Facebook:
http://www.facebook.com/lightupnippon
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ちなみに、今年の「LIGHT UP NIPPON」の
メイン会場は、気仙沼とのこと。
2年ぶりとなる「みなとまつり」と一緒になって、
気仙沼小学校で開催されるライブなど
お祭りを盛り上げる企画が進んでいるそうですよ。
また、情報が入ったら、
こちらでもお知らせしますね。

気仙沼市唐桑町で歌い継がれてきた
「浜甚句(はまじんく)」。
「サユミちゃんもどうですか」と、
またもやお誘いをいただきまして、
斉吉商店の貞子さんと、
ともづなプロジェクトの藤野さんという
いつものお出かけメンバーで、
浜甚句の練習会に参加することになりました。

浜甚句とは、唐桑町で歌われる大漁唄のひとつで、
大漁祈願や大漁を祝うものです。
私の生まれ故郷である松島でも、
「斎太郎節」という大漁唄があり、
お祭りの時などによく歌われるので、
大漁唄の存在は知っていたのですが、
浜甚句というのは今回初めて聞きました。

浜甚句は、海よりも、陸で漁師が宴会をするときに、
みんなで盛り上がるための余興として
歌われてきたものだと言われており、
7、7、7、5調の節にのせられた唄には、
昔の漁師さんたちの
生活の様子や、想いが込められているそうです。

今回の練習会は、3晩連続の日程です。
毎晩夕方、斉吉商店さんに集合し、
車で30分ほど移動して、
練習会の会場となった
唐桑町松圃(まつばたけ)集会所まで通いました。

夕暮れ時の唐桑の海を窓から見つつ、
貞子さんから、
練習会の参加に至ったきっかけもお聞きしました。
貞子さんは、つばき会のおかみさんたちが
行っている活動の一つ「出船送り」のとき、
練習会の発起人である中澤さんとお会いし、
浜甚句のことを教えてもらったそうです。

ちなみに出船送りとは、
遠洋漁業に出かける船を
陸地から盛大に見送るもので、
こちらについてもいつか、
気仙沼のほぼ日でご紹介したいと思います。

さて、会場につきました。
浜甚句の手書きテキストが配られ、
発起人、中澤さんからご挨拶をいただきます。
歌い継がれてきたとはいえ、
近年では歌われる機会も減り、
浜甚句を歌える人が少なくなってきたとのこと。

「今日は、気仙沼のみなさんも
一緒に歌っていきましょう」
と言われて、なんだか不思議な感じがしたのですが、
唐桑町は2006年に気仙沼市と合併し、
気仙沼市唐桑町という地名になった場所なのでした。

ここ唐桑では、気仙沼駅や市役所があるあたりを、
区別する意味を込めて「市内」と
呼んだりするのですが、
それこそ、私が普段知っている気仙沼は
「市内」のことであって、
唐桑は独自の文化を作ってきた地域なんだな
ということに改めて気づかされました。
と、いうことで、ここから
「唐桑」「市内」という呼び方で
進めていきたいと思います。

ここ唐桑が市内とは異なる文化を持っていると、
肌で感じるエピソードとして、
この集会所に来てから、
かなりの言葉を聞き取ることが
できなかったことがあげられます。
私は、宮城生まれで、
両親がともに石巻出身であることから、
むしろ、方言はよくわかる方でした。
でも、なんだかその自信が一気に崩れそうなほど、
全然リスニングができなかったのです……。
そもそも、石巻と気仙沼でも
方言はちょっと違うのですが、
まさか、気仙沼市の中でこんなに異なるとは……。
やっぱり海の町は陸よりも
海外とのつながりがあったりするから、
こういうこともあるのかなぁなどと考えていました。

と、いうことで、
私が1日目の「浜甚句の練習会」の内容を
ほんとうの意味で理解できたのは
次の日の三陸新報の記事を読んだあとでした。
三陸新報さん、ありがとうございます!
おかげで、練習についていくことができました。

さて、肝心の唄ですが、
これはテキストに歌詞が書かれているので、
ちゃんと練習することができました。
ここでもいくつかご紹介しましょう。

「目出度目出度(めでためでた)の
 若松様ヨ 枝も栄えて葉も茂る」

これが、浜甚句を歌うときに
最初に歌われるものです。
若松様が誰なのか、
何なのかというのは諸説あるそうですが、
この「めでためでた」で始まるのが
決まりとのことです。

「唄いなされやお唄いなされ
 唄で器量が下がりゃせぬ」

これは、酒の席での
「ほら、あんたも黙って呑んでないで」という
意味合いのものだと思います。
恥ずかしがりの私も勇気づけられる言葉でした。

「気仙気仙沼のイカ釣り船は
 イカも釣らずにあねこ釣る」

「あねこ」とは、若い女性を意味します。
そう、ここでいう「気仙沼」は
市内のことであって、
唐桑町は含まれていないのです!
中澤さんが「気仙沼の人も一緒に歌いましょう」と
わざわざ最初におっしゃった意味が
わかった気がしました。
こういった町同士の関係性が歌われるのも、
長い歴史があるからこそ。
いまこうしてみんなが一緒に歌っているのが
面白いなぁと思いました。

そして最後は
「あまり長いのは皆様困る ここらで一休み」
の唄でシメます。

参加者から「カラオケより、いいね!」
という感想もでたほど、
みんなで手を叩きながら歌う一体感があるので、
確かに盛り上がりそうだなぁと思いました。
慣れてくると、いろんな言葉をのせて、
好きに歌っても良いそうです。
漁師のラップのようでもあります。

今回の練習会で、
唄の節をなんとなく
歌うことができるようになりましたが、
習得はまだまだ、といったところです。
最終日には
「浜甚句を歌う会(仮)」という会が結成され、
「今回だけでは無理だと思うから、
またしばらくしたら集まりましょう」
と、練習会は一旦解散となりました。
本当に貴重な経験をさせていただきました。拍手!

練習会が終わって数日後、
藤野さんを誘って、唐桑半島の端の端、
御崎(おさき)と、
御崎神社に行ってみました。
教えていただいた浜甚句の中に、
「お崎さんまで 見送りました
 さあさこれから神頼み」

という唄が少し頭にあったこともありました。

リアス式海岸の地形が見事な御崎は、
崖とぶつかり合う波がとても激しく、
私の知らなかった海の姿を見せており、
ちょっと、怖さも感じるほどでした。

ここまで見送りにきたおかみさんは、
心から、海の男たちの無事を、
神様にお願いしたのでしょう。
命がけで海に出て行った漁師たちを見つめる、
覚悟を決めたそのおかみさんたちも、
ここに立っていたのかなぁと思いました。

こんにちは。
ほぼ日で経理を担当しております
ナカハラです。

今年の3月に行われた「気仙沼さんま寄席」で、
スタッフとしてはじめて訪れた気仙沼に
このたび、ツアーのお客さんとして参加してきました。
参加したのは、JTBと日経WOMAN Onlineが主催する
「大人の修学旅行in気仙沼」。
気仙沼を盛り上げようとあつまった
女将さんたちの団体
「つばき会」のみなさんが企画されたツアーで
参加できるのは、女性のみ!
20〜60代の幅広い年齢層の35名が参加しました。


金曜日の夜に東京を発ち、
日曜日の22時に東京にもどってくるまでの間、
たったの2日間とは思えないほどの
盛りだくさんのツアーでした。
どんな内容だったのか、
そのようすをレポートいたしますね。

夜の23時に東京を発ったバスが
気仙沼の唐桑半島にある
「盛屋水産」についたのは、翌朝7時半をすぎた頃。
「盛屋水産」の一代さん
「斉吉商店」の和枝さんをはじめ、
ボランティアのみなさんが出迎えてくださいました。


最初の仕事は、
牡蠣の養殖ではじめに行われる
「種はさみ」のお手伝いです。
外洋の影響を受けにくく、
穏やかな内湾のある気仙沼では、
栄養も豊富で、養殖業に適した環境があるため、
養殖業が盛ん。
牡蠣の他にも、ワカメやメカブ、帆立など
季節によって内容が変わります。
そんな気仙沼の自然の豊かさや
他にはない特徴を知ってもらおうと
「つばき会」のみなさんが企画したこのツアーには
ボランティア活動とはちょっと主旨のことなる、
地元でのお仕事体験が行程の中に入っています。


今回、わたしが体験した
「牡蠣の種はさみ」とは、
撚り合わせてある2本のロープを持ち、
そのロープの間を指で開け、
3〜4cmの小さな牡蠣の種がついた
15cmほどのホタテの貝殻を、一定間隔で、
ロープのすき間に、はさんでいくお仕事。

ついつい夢中になってしまい、
一生懸命にやったせいなのか、
それとも、

「みなさん、とーーーーーっても、お上手!」

と、笑顔でおっしゃる
一代さんにおだてられたせいなのかは
わからないのですが、
あっという間に作業終了。
そのあとは、
船に乗せていただき、
はさんだ種を筏に吊るしに行きました。

わたしたちが、種はさみをした牡蠣は
まだまだ、小さな赤ちゃんという感じでしたが
数カ月前に種はさみをして
海の中でたくさんの養分をとった牡蠣は、
ホタテの貝殻よりも大きくなり
ロープにびっしりとついていました。
今回、私たちがお手伝いした牡蠣も
これから大きくなってくれるでしょうか。
今からとても楽しみです。


そのあとは、唐桑から場所を移動して、
復興屋台村 気仙沼横丁で昼ごはんを食べ、
沿岸部をバスでめぐり、
自由時間には、付近を散策したりしました。

実際に歩いてみて感じたのは、
テレビや新聞で見聞きするのと、
気仙沼に足を踏み入れるのでは、
見える風景がまったく違うということ。
骨組みしか残っていない家々や、
根本からぐにゃりと直角に曲がった電柱。

目にすると津波のすさまじさをありありと感じます。


夕食後には、このツアーを企画した
つばき会の女将さんたちとの座談会です。

震災当日、自分が何をしていたか。
奇跡的につながったテレビに映った、
自分の住む街の信じられない光景。
食べ物、ガソリン、
遺体安置所などの情報を得るために、
毎日、とにかく歩き回ったこと。
胸がつぶれるような経験をして
今日までどうやって過ごしてきたか‥‥。
ニュースなどでは報じられていないような
はじめて聞くことばかりで、
昼間に気仙沼の地を歩いて目にした光景を
思い返しながら、話を聞きました。


まぶしいほどの笑顔で、参加者と話をし、
ときには、冗談を言って笑わせるみなさん。
そんなようすからは、想像もできない
苦労や葛藤があったのだと感じます。

実は、わたしは、ツアーの申し込みをしたものの、
気仙沼に来るまで、心のなかで、
「ほんとうに行っていいのだろうか」
「楽しんでいいのだろうか」
という気持ちを持ちながら、ツアーの日を迎えました。
でも、そんな心配は一切無用というくらいに
気仙沼では、多くの人に歓迎されました。

昼間に行った屋台村の「男子厨房」さんに、
夜、ふたたび訪れたときは、
「おっ! また、来たのぉ!」
と、迎えられ、
地元の常連さんにも歓迎されました。
東北名物や東北弁を教えてもらったりと
楽しいひとときを過ごし、
気仙沼の方々の明るさや懐の深さに、
かえってこちらが元気をもらったように感じました。


気仙沼から帰ってきたいま、
思い出すのは気仙沼の方々のほんとうに
素敵な笑顔と心からのおもてなし。
気仙沼の方々の強さと明るさに、
すっかり気仙沼ファンになってしまいました。

「大人の修学旅行in気仙沼」は
次回、第3回を予定しています。
そうそう、JTBさんからは、こんなお話も。

「ツアー内容の打ち合わせをしていると、
 気仙沼のみなさんから、
 『あそこに行ってほしい、これを見てほしい、
  あれを食べてもらいたい!』
 って、アイデアがどんどん出てくるんです!」と。


わかりますっ! その感じっ!
この記事を書くにあたり、
今回のツアー内容があまりに濃すぎて
伝えたいことがてんこもりで、
わたしも、書くのに、とても苦労しています。

どれだけツアーが楽しかったかというと
帰りのバスは、まさに修学旅行の帰り。
ひとりで来た参加者がほとんどでしたが、
まわりのひととおしゃべりしたり、
連絡先を交換したり、
帰る頃には打ち解けて、にぎやかな帰路となりました。
年齢も、出身も仕事もさまざま。
そんな中、こうやっていろんな人と出会って、
同じ体験を共有し、
修学旅行をともにした「同窓生」として
ツアー後もつながりができるのは
ツアーの醍醐味だと思います。

百聞は一見にしかずと言いますので、
興味はあるけど、
まだ、行ったことがないというかたは
ぜひ、おすすめします。
気仙沼の魅力的な人との出会いはもちろん、
三陸のおいしい海の幸を堪能しながら、
一緒にツアーに参加する
人たちとの新しい出会いを
たくさんの方に、めいいっぱい楽しんできて欲しいです。


斉吉商店の和枝さんは、こうおっしゃっていました。

「こうやって、気仙沼のことを気にしてくれたり、
 来てくれる人がいることが、私たちの希望です。
 来てくれてほんとうにうれしい」。

わたしも、
「被災地だから行く」のではなく、
「会いたい人がいるから、
 行きたい場所があるから、気仙沼に行く」。

次は、そんな風に
気仙沼を訪れたいと思います。

こんにちは、気仙沼のほぼ日のサユミです。
唐突にはじまったようなシリーズですが、
私はちょくちょく、
斉吉商店のおかあさん、
貞子さんに声をかけていただいて、
いろんな気仙沼をご案内いただいています。
前回のおでかけ、魚市場編はこちらです

今回は、徳仙丈山という、標高711m、
気仙沼市と旧本吉町の境に位置する山に上りました。
以前、藤野さんのレポートでも
紹介させていただきましたが、
徳仙丈山は、ツツジの名所として知られる山です。
気仙沼市のパンフレットに
「5月中旬から6月上旬には
50万本のヤマツツジやレンゲツツジが
全山を深紅に染上げます」と書かれているとおり、
見頃となる時期の、
山を覆うほどのツツジの大群落は圧巻です。

ちょうど私が行った頃は、満開をすぎ、
やや枯れ始めた花も
目につき始めていたのですが、
ツツジだけでなく、
あおあおと生い茂る新緑もまぶしく、
気持ちのよい景色を楽しむことができました。

この日は快晴でした。
新緑、青い空、そして真っ赤なツツジ。
いつもの海沿いの風景とも
ちょっと違う景色が新鮮です。
木漏れ日はキラキラしていて、
涼しい風が吹きぬけていきます。
ああ、いま、私の体は
開放されて喜んでいるなという
実感がわいてくるようでした。
平日の午前中に、
さわやかな汗をかきながら
こんなふうに山登りをするなんて、
ちょっと前なら考えられない生活でした。

貞子さんから、
植物の名前や生育、
気仙沼のことについてなど
いろんなお話を聞きながら、
ゆっくりと上っていきました。

山頂までは約40分。
道の両側から迫るように咲くツツジの道を抜け、
「一二曲がり登山道」に入ります。
くねくねとした上り坂の
曲がり角を数えながら登っていると、
下山をしてくる方に、
「もうすぐ頂上だからね」と
声をかけられました。

そして、頂上到着!


いたるところに、ツツジの赤!
私たちは、気仙沼側から登っていったのですが、
反対の本吉側から登ったときの景色も、
また大変すばらしいそうです。
山頂でパチパチと写真を撮っていると、
「お弁当たべましょう」とお声がかかり、
またもや!
(出かけるたびお弁当をいただいているのです)
貞子さん手作りのお弁当を
いただくことになりました。

〜今日のお弁当メニュー〜
・あずきご飯と紅ショウガ
・卵焼き
・キュウリの漬け物
・フキの煮物

山でみんなで食べるお弁当って、
もしかしたら小学校の遠足以来かもしれません。
その時とまるで同じ、
「山の空気と一緒に食べるお弁当は、
本当にとても美味しかったです。」
という感想文が書けるなと思いました。
ごちそうさまでした。

帰りは、ツツジ街道というツツジに挟まれた道で
記念撮影をしました。
ここの野生のツツジはたくましく、
人よりも背が高いのです。
徳仙丈山に来たのはこれが初めてでしたが、
今年もかわらず美しく咲いてくれて、
ツツジよ、ありがとう!
という気持ちになりました。

気仙沼市内から車で30分ほどですが、
こんなに山を満喫できるとは思いませんでした。
海もいいけど、
山もいいですね。

待ってましたといわんばかりに、
つぎつぎとアップデートされるカツオの写真。

6月6日、気仙沼魚市場に、
ついに、今年のカツオが初水揚げされたのです。
港町にとっては何とも嬉しいニュース!!

しかし、その日はちょうど、
ほぼ日14周年記念イベント
「キャンプだホイ!」に参加するため
私は東京に出張していたのでした……。

カツオ初水揚げの瞬間は見られなかったものの、
その時の私のFacebookのウォールは、
気仙沼のみなさんのカツオ写真と、
うれしそうな声でいっぱいに。
なんだか幸せな気持ちになりました。

「今年もカツオがやってきた!」
ワクワクと、活気に満ちあふれた、
みなさんのコメントと写真。
FacebookやブログにUPされていたものを
抜粋してご紹介します。
カツオ船の様子や、お刺身写真など、
いろいろありますよ。
ーーー
■南三陸&気仙沼情報満載のブログ
来て見て浜ライン!」さん

今日は、嬉しいニュースが
気仙沼市内に流れました!!
なんと、今年の気仙沼魚市場での
カツオの初水揚げが行われるとのニュースでした!!

実は、気仙沼魚市場は生鮮カツオ水揚げ日本一を
15年連続で守っており、
震災後の前年も水揚げ日本一を守りぬいていました。
生鮮カツオ水揚げ日本一について書いた
以前の記事はこちら

実際に、気仙沼魚市場に行きますと、
カツオ漁船がちょうど魚市場に来ていました!!
水揚げを見て、初ガツオが
凄く食べたくなってしまいました。

水揚げ後、船は魚市場から離れて行きました。
「今年も気仙沼魚市場で、
カツオの水揚げをたくさんしてくださいね」
と言いたくなってしまいました。
ーーー
■気仙沼生まれ、気仙沼育ちの阿部貴之さん

一本釣船が入港!!カツオの季節がやってきました。
いよいよにぎわう港町の朝。
ぼーっと聞こえる船のエンジン音。
そういうしあわせ。
ーーーー
■三陸新報の伊藤和臣さん

台風避難による、
カツオ一本釣り船気仙沼港停泊の模様です。

昨年の今頃には見られなかった「港の明かり」、
船員さんを待ち構えるタクシー達、
聴けなかった「エンジン音」が
今シーズン早々に揃い、
飲食店やコンビニでは、
日焼けした宮崎の船員さん達のお国訛りを聞けた。
カツオ水揚げ連続日本一は、
気仙沼を選んで入港してくれる船員さん達の支えで
達成されている。

船員さん達が、
波穏やかなここ気仙沼湾でゆっくり疲れを癒して、
また気仙沼港でカツオを水揚げしてほしいなと
思いながらシャッターを押した。
ーーーー
ともづなプロジェクトの藤野さん

今日の「さだこの台所」は、
(注:通称「貞子の台所」は斉吉商店のおかあさん、
貞子さんが作られる料理のこと)
茄子の味噌炒めとお刺身。
お刺身は左がブリ、右がカツオ。
カツオはこの日気仙沼にあがったものです。
気仙沼は秋刀魚も有名ですが、
カツオ水揚げ量もNo1なのです。
今年はどうなるか、楽しみです。

ごちそうさまでした。
ーーー
■臼福本店の臼井壯太朗さん

気仙沼かつお初水揚げなう

気仙沼の夏が始まります!
ーーーー
■気仙沼プラザホテル支配人の堺丈明さん

気仙沼市民のタイムラインは、かつおネタ一色

ってなことで、わたしもカツオ!!

ウマソ〜〜〜〜
旬なモノですからね。

夕方5:30〜「和食処 海舟」にて
お召し上がりいただけます!
(注:水揚げ当日の話です!)
数に限りがありますので皆さんお誘い合わせの上、
お早めに!

まだまだ定期的には難しいとのことなので、
水揚げになりしだい随時、
お知らせしてまいります!
ーーーー
■宮城県庁の山田康人さん

ついに食べれましたっ!

わーい!
ーーーー
カツオがきたぞー!と
喜べること。
おいしいね!と
言い合えること。
私も、嬉しいです。

でも、ちょっと嫉妬もしています。
なぜって、ここまでご紹介しておきながら、
私はまだ、初カツオを食べていないのですから……。

気仙沼のほぼ日のサユミです。
先日、ツツジの名所として知られる
「徳仙丈山」に行ってきました。
標高は711mで、
気仙沼市と旧本吉町の境に位置しています。

今回は、以前魚市場に行ったとき同様
「サユミちゃんもいかない?」と
お誘いいただきまして、
斉吉商店のおかあさん、貞子さんと、
斉吉商店をなにかとお手伝いしている
ともづなプロジェクトの藤野さんの
3人で山に登ることになりました。

ですが、じつは藤野さん、
なんと、前日もこの徳仙丈山に登っていたのです!
お話を伺ったところ、
その話が大変面白そうだったので、
ちょっと教えていただきました。
----
こんにちわ、ふじのです。

サユミちゃんと斉吉商店の貞子さんと
徳仙丈にお出かけする前日、
私はひと足先に徳仙丈に登ってきました。

それは、気仙沼のおもてなしを考える女性有志の会、
「つばき会」の皆さんが
毎年この時期に実施している、
「徳仙丈にいらしたお客様に、
勝手にお茶を振る舞う」
というゲリラ活動のお手伝いをするためです。

この日のつばき会メンバーは、
先日つばき会2代目会長に就任した
高橋和江さんを筆頭に、
ともこさん、のりいさん、
ひがしさん、そして助っ人数名。

つばき会の皆さんは、
椿の刺繍が入ったお揃いのユニフォームを着用し、
お茶の入ったポットを持って、急な坂道を歩き、
第一展望台まであがりました。
つばき会のスゴイところは、
冷たいお茶だけではなく、
あたたかいお茶と飴玉も用意しているところ。
この日はお天気がよかったので、
お茶はもとより、飴玉も大活躍。

あっという間に約300人分のお茶を提供し終えると、
下山して、登山道入り口すぐの原っぱで、
皆さんが持ち寄ったお昼で(分けていただきました)、
ピクニック気分を味わいました。

お茶のポットだけでも大変なのに、
お味噌汁やコーヒーを飲むためのお湯も
用意されていました。
つばき会の皆さん、さすがです。
そしてごちそうさまでした。

徳仙丈の山つつじ、
来年はぜひつばき会の皆さんに会いにきませんか?
第一展望台であなたを待っています。

----
山登りの途中、
美しい景色を眺めつつ、
あずまやでホッと一息つきながら飲むお茶は
本当においしいです。
つばき会のおかみさんがたと、
お話できるのも
それはそれは楽しいでしょう!

来年はぜひ、お茶をいただきに行こうと思います!

こんにちは、ヤマザキです。
(先日まで、ナカバヤシで書いていた者です。
 今後ともよろしくお願いします。)

さて、ちょっと前にお伝えした
盛屋水産の牡蠣船体験のとき、
われわれ、ほぼ日乗組員といっしょに
牡蠣船に乗った写真家がいました。


その人の名前は、池田晶紀さん。
ほぼ日のみんなからは
「イケ坊」と呼ばれています。
彼は、東京で『ゆかい』という
写真事務所を主宰する写真家であり、
アーティストです。

雪が降ったり、牡蠣を取ったり、
仮設店舗がはじまったりした、
いちばん寒い時期の気仙沼のようすを


「だれかプロの写真家に
 ちゃんと撮ってもらって残しておきたい。」

と思って、わたしたちが
真っ先に声をかけたのが、
イケ坊こと、池田さんでした。
二つ返事で、オッケーして同行してくれた彼は、
はじめて見る気仙沼を
見たままの気持ちで撮ってくれました。
そして、わたしたちと行った数週間後、
仲間といっしょに
ふたたび、気仙沼を訪れたそうです。

「気仙沼のほぼ日」がきっかけになって
気仙沼に行ってみようかなと思う人が増えること
それは、「気仙沼のほぼ日」をつくったとき、
そうなったらいいな、と思ったことのひとつでした。

なので、彼が気仙沼を出るときに
「また、すぐ来ます。」と言って
ほんとうにすぐに訪れていたことは
わたしたちにとって、
とてもうれしいことでした。
そして、イケ坊の写真を、
「気仙沼のほぼ日」からお届けすることで
また、だれかに伝わるといいなと思います。
こんなに寒い時期でも、

「行ってみたらよかった。
 また、だれかを連れて行きたくなった。」

それが、気仙沼なのだと思います。
イケ坊が
イトイと数名の乗組員に同行した
2012年の1月下旬のこと、
たくさんの写真でご覧いただけます。

スライドショーはこちらから。

それでは、イケ坊、こと、池田さん、
自己紹介をどうぞ。
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まだ雪の降る、2012年1月21日と22日に、
ぼくは気仙沼のほぼ日のみなさんと一緒に
彼らの活動と気仙沼の風景をみにいきました。

初対面のぼくのことを「イケ坊」とよんでくれる
ほぼ日のスタッフのみなさん。

この親しみたっぷりなふれあい方は、
地元で出会った漁師さんやコーヒー屋さん、
酒蔵の方々にも対しても同じで、
とてもいい関係をつくっているんだな〜。
と、うれしい気持ちになったのを覚えています。

それから、
気仙沼のほぼ日のみなさんと、地元の方々で、
あたらしい試みを生むための活動に、
ぼくは、同行させてもらい、
牡蠣の養殖ツアーなどのトライアルに
参加しました。

はじめてきた場所は、はじめてみる風景で、
ここでおこる、
はじまりをつくるためのみなさんの光景を、
ぼくは記録した。

写真家であるぼくは、
今回、「はじめてみる」ということを、
「撮る」という行動に直接結びつけ、
出来るだけ素直な写真にしよう!
という気持ちをもって訪ねた。

ぼくなりに丁寧に記録した、気仙沼でのこの時間は、
この人たちの「モノをつくる」よろこびが、
風景と共にたくさん写っていて、うれしかった。


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イケ坊、ありがとうございました。
またいっしょに、気仙沼に行きましょう!

まちづくりサークル「気楽会(きらくかい)」の
気仙沼の魅力的な人々に出会う
「ひとめぐりツアー」をご紹介します。
気楽会は、地元の20〜30代が中心となって、
「気仙沼を楽しむ」
「気仙沼を楽しくする」活動を行うため、
2006年に結成された会です。
震災前は南気仙沼駅に「観光案内課」を設置し、
はじめて気仙沼を訪れる観光客への
案内を行なったり、
気仙沼ホルモン全店マップの
制作を手がけたりしてきました。

ひとめぐりツアーは、
気楽会が震災後に企画した活動で
気仙沼の街を半日かけてゆっくりと歩き、
街の景色を肌で感じながら、
気仙沼人と出会い、会話をしていくものです。
私はこれまで、通算3回参加しました。
はじめは、昨年の9月。
被災した街を案内する、
手探り状態で始まったこのツアーが
「トライアル」と題して行った、
第ゼロ回開催の時、
ほぼ日の乗組員数名と一緒に参加しました。

そのころ、まだ街には、
津波で押し流された家屋や船が
いたるところにあり、
気仙沼のみなさんが震災の話を教えてくれるその声も、
がむしゃらに日々をやり過ごしてきた様子が
強く感じられたように思います。

みなさんが、被災後の気仙沼を
はじめて車ではなく歩きで眺めた時、
自分の頭のはるか上の高さを、
津波で流された家々が通過していったということや、
電気も、水も出ない環境で、
ガソリンもなく、
同じ場所を歩いていたのだということが、
頭の中をめぐりました。

今年5月のツアーでは、
震災からの1年を経て、
数々の問題にぶつかりながらも、
できることを始めようとしている皆さんの姿を、
見せていただきました。
前回のツアーよりも、
一段とパワーアップしているように感じられるほど、
いつでも前を向いているその姿勢に、
逆にこちらが励まされてしまう。というのは、
ツアーに参加されていた方の感想でもあります。

そして、ツアーの回を重ねるごとに、
街のいろいろな建物が撤去され、
「何もない場所」が増えてきたということも感じます。
何もなくなった街を見て、
元の姿や、被害の様子を想像するのは
とても難しいことです。

一方で、津波で粉々になった建物や家具は、
細かく分類されながら、
一つの場所に集められています。
交通量の多い道路から
少し離れた場所にある集積所の前に立つと、
その量に圧倒されます。

まるで、ひとつの団地、
あるいは大型ショッピングモールのような大きさで、
大きな塊となって積み上げられているのです。
そんな光景は、気仙沼だけでなく、
被害を受けた沿岸部の
どの街にもあります。
街が片付いてきた、と言われれば
それは間違いではないのですが、
大きな山を形作っているひとつひとつは、
家や学校、勤務先として建っていたものであり、
生活に使われていたものであり、
だれかの所有物でもありました。
それらはすべて、街の一部であったのだ思うと、
ただただ「街を失ってしまったのだ」
という喪失感に打ちのめされます。
津波がきても、
もう二度とこういうことが起きないように、
今、そこに住んでいた人たちは
一生懸命知恵を絞っています。

私は、震災当日東京にいました。
その時のことを知らない私にとって、
このツアーに参加して、
積み上げられた街、
被災を受けた店舗、避難したビル、
目の前で家族が流されていった場所、
そういうところで、その当事者たちから聞く言葉は、
とても貴重なものです。
何も知らなかったからこそ、
こうした言葉や、残された写真によって、
震災時の事、それから今までの出来事を
自分のなかにどうにか留めておきたい
という気持ちがあります。

被害の規模の大きさを数で表すのは難しいのですが、
「気仙沼で出会う人は、
誰しもが大切な人や物を失っている」という感覚が、
この街の受けた被害の大きさだと私は思います。

それでもなお、この街の人が外から来た人たちに
「元気で明るい」と言われるのは、
いったいなぜなんでしょう。
気楽会のツアーでも、
まさに「元気で明るい」
たくさんの魅力的な気仙沼人と、
出会うことができます。

気仙沼に住むようになって思い当たるのは、
この街が根っからの海の街、
港町だからではないかということです。

海の近くに住む人達は、
海に出ていく男たちはもちろん、
男たちの不在の家を守る女たちもまた、
力強く、しっかりと、元気でいなければなりません。
そういった気質に加え、
この街が大きな港町であるがゆえ、
外からの人に対する懐が大きいところがあると思います。

特にその交通の便の悪さから「陸の孤島」
とも揶揄される気仙沼ですが、
その分、外から来てくれる人々への
ウェルカムモードはかなり強力です。
がっしりと肩を捕まれ、
「よく、来たごだ!」と言われて、
ウンウン頷かれたりします。
はじめて会ったのに、
「食わいん!」
と言ってお魚や貝をくれたり、
「上がってがいん!」
とドヤドヤと背中を押され、手をひかれ、
気づけばその人の家の茶の間で
ご飯をたべているような時もあります。
この街は、来てくれる人にはこれでもかというほどの
もてなしをする(されている)気がします。

そんなふうに大歓迎されることって、
なかなか無いと思います。
私ははじめての経験でした。
もし、みなさんが気仙沼に訪れるなら、
帰り際、ちょっと寂しくなるくらいが、
気仙沼の良さを味わえた、
いい旅だったといえるのではないでしょうか。

「たくさんの知り合いができれば、
その地域に何度も通いたくなる」
というのが、このツアーのコンセプトでもあります。
私も、気仙沼に来るようになって、
たくさんの方とお会いしました。
そして、結局この街に住むことになりました。
それから、外から気仙沼に訪れる方々とも、
たくさん友達になりました。

どうぞまた来てくださいね。
これからいらっしゃる方も、待ってますので、
どうぞ来てください。
という気持ちで、私は気仙沼にいます。

さて、気楽会のツアーの受付については、
気楽会のブログからご確認ください。

ちなみに気楽会の代表は、
ほぼ日にもたびたび登場している
コヤマ菓子店の小山裕隆さんです。
私も、今度はみなさんをお迎えする気仙沼人として、
このツアーに参加していると思います。

前回、前々回の、
ゴールデンウィークの様子につづいて、
今回は、わたくし、
ほぼ日アルバイトのまりさから、
ゴールデンウィークに行った
ボランティアのことをお伝えします。

去年の同じ時期、福島県の相馬市に、
ボランティアに訪れてから1年、
今年のゴールデンウィークは、
家族で、宮城県南三陸町に行きました。
気仙沼市のお隣にある南三陸町まで、
東京から車で約7時間。
父、母、兄、わたしの4名で
交代で運転しながら向かいます。

石巻インターを出て、
海岸に近づくにつれ、
津波の傷跡を目にするようになりました。
だれもいない、
冠水したままの学校では
震災当時の時刻のままの時計が残っていました。

最初に向かったのは、
宿泊場所であるキャンプ場です。
南三陸町災害ボランティアセンターから
それほど遠くはないキャンプ場に
テントをはります。
リアス式海岸がすぐそこに見える
とてもすがすがしいキャンプ場です。

ボランティアの活動は翌日からでしたので
この日は、町の様子を見てみようと
気仙沼の方まで車を走らせました。

車の中から町の様子を見ていると
1年前に見た相馬市の風景にはなかった
色々なものが増えていました。
たとえば、仮設コンビニ、復興商店街、
それから、新しい電柱。
1年前には、震災で倒れた電柱と
震災後に立てられた
新しい電柱の2本が一箇所にありましたが、
いまはもう古い電柱は撤去され、
新しいものだけが立っています。

気仙沼の町を見たあと、
陸前高田の方にも足を伸ばそうと思ったのですが、
この日は冠水のため、
通行止めで行けませんでした。

次の日。
南三陸町災害ボランティアセンターに
わたしたちが到着したのは、7:30。
そのころは、まだ人がちらほらでしたが
受付時間の8:30に近づくにつれ、
人が集まりはじめます。

気がつけば、かなりの大行列。
新商品の発売日でもなければ、
おいしいものがもらえるわけでもないのだけれど、
こんなにたくさんの人が列を成している
ということに
少し気持ちが明るくなります。
皆リュックに長靴というスタイルです。

列の前から順番に、
ボランティアセンターの方が
本日のお仕事を割りふってくださいます。

「今日は県営住宅のガレキ撤去を
 よろしくお願いします。」

震災から1年以上たった今でも、
「ガレキ撤去」
という作業がまだあるんだということに、
正直、少しびっくりしつつ、
ビブス(ナイロンのベスト)を身につけて、
班ごとに集まり、説明を受けてから
自家用車で現地へ向かいます。


近くの老人ホームに駐車し、
県営住宅まで歩いて向かいます。
遠くからみると立派に見えたこの老人ホームも、
近づいてみると、震災の傷跡がよくわかります。
高台にあるにもかかわらず、
たいへん高い津波が押し寄せ、
多くのかたがここで亡くなられた、
被害の大きい場所だったとのことでした。

この日、県営住宅の前に集まったボランティアは
およそ100名ほど、全員でガレキ撤去をします。
この県営住宅は、
南三陸町の中でも、最近になって、
やっとボランティアの手がつけられた
場所だそうです。

屋上まで津波に埋もれてしまった
県営住宅の中に入ってみると、
本、洋服、電気製品、
ありとあらゆる家中のモノと、
外から入ってきた泥やガレキが混じったものが、
ギュッとかたくなって部屋の中に詰まっています。

クローゼットの引きだしには、
海水が入っていました。
冷蔵庫の中には、
溶けたアイスクリームが入っていました。
震災当時のまま、まるで
時が止まったかのようでした。

ボランティアの主な仕事は、
スコップで泥をかきだしながら、
その泥にまじったガレキの分類をすることです。
ガレキは、ガラス、壁材、電化製品、
燃えるもの、貴重品に分けられます。

ガレキの撤去をすることで、
もともとこのマンションに
住んでいた人たちが後に戻って来て、
また住むことができる、ということはありません。
ではなぜ、ガレキの撤去作業をするかというと、
このマンションを取り壊すときが来たとき、
業者の方々のガレキ分類の手間や
それにかかる費用を削減できるということ、
そして、住んでいた人たちの
大切な貴重品をよりわけ、
お渡しすることができるからだそうです。

わたしの片付けた部屋のお母さんは
裁縫が大好きなかたのようでした。
これまで、楽しみに集めてきた様子が窺い知れる
パッチーワーク用の生地のはし切れと、
瓶に詰まったパーツのコレクション、
そして、
赤ちゃんが生まれるまでの毎日を綴った日記、
ケースに入ったへその緒、
お子さんの描いた絵などが、
泥の中から出てきました。

「ご家族が大切にされていたもののようだ」
と、感じたものは、ガレキとは別に、
カゴに分けて整理しておきました。
作業をして何時間か経つと、
別の部屋を作業していた人からも
そうしたものが集まって
部屋の一角に大きな山をつくっていました。

作業はだいたい1時間に1回、
15分間の休憩をはさみながら、
無理のないペースで進められ、
7つに分かれた班のチームリーダーが
作業の流れを指示してくれます。

チームリーダーの方々は、
とても慣れていて、職員のかただと
勝手に思い込んでいたのですが、
そうではありませんでした。
ボランティアとして南三陸町を訪れて、
長い間活動を続けているのだそうです。
わたしの班のリーダーのかたは、
林業で働いているという、
朗らかでとっても優しい50代くらいの男性でした。
去年の6月から
ボランティアセンターの近くにテントをはり、
生活しているそうです。

3時半にガレキの撤去作業を終了したときには、
1階は、すべての泥がかき出され、
床が見えるようになり、
足の踏み場がなかった2階からは、
家の中のモノのほとんどが、
外に出され、片付いていました。

終了の挨拶のとき、
班のリーダーの方が、こうおっしゃっていました。

「どうかみなさん、
 帰られましたら、
 今回のボランティア活動で見たこと、
 感じたことをまわりの方々に話してみてください。
 最近は、テレビなどで
 被災地のことが扱われることも
 少なくなってきましたが、
 こうした作業には
 まだまだボランティアの手が必要です。」

わたしは、ここでボランティア活動の報告が
できることをとてもありがたく思います。

最初に入った時は、
とても一日で作業が進むとは思えなかった部屋が、
一人ひとりのボランティアの人の手と汗によって
片付いていくんだという
すごみみたいなものを感じました。
そして、わたしにもできることが
あるということにありがたみを感じました。

今までは、津波で流される町の様子の映像など、
震災の被害を大きな規模で感じていました。
けれども、今回、ボランティアとして
はじめて個人のお宅の中にお邪魔させていただき、
それぞれの家族の生活時間が
あの一瞬で止まってしまったんだ、
ということを、
本当にはじめて実感したように思います。

そして、ガレキ撤去は、
長距離マラソンのような作業です。
わたしは、はじめの方から力んでとばしてしまい、
最後のほうは、へばり始めてしまいましたが
ベテランの方々は、
ゆっくりゆっくり作業を進めていて
頑張りすぎないことがコツのようです。
(これからいらっしゃる方、ぜひご参考に。)

夕食は、南三陸町の復興商店街で
ホタテやつぶ貝を買い、
キャンプ場に戻って、いただきました。
三陸の海の幸は、本当においしかったです。

ゴールデンウィーク中は、
たくさんの人がボランティアに訪れていました。
でも、人手の少ない時期に行くことができるのは
わたしたち学生だとあらためて思っています。
次は8月ごろ、今度は友達を誘って、
また、行くつもりです。

前回に引き続き、
ゴールデンウィークの様子をご紹介します。

5月3日〜5月6日は、
気仙沼、南町にある
みなみまちcadocco(カドッコ)」で、
「GWだョ!ヌマッコ集合」
という子ども向けイベントが開催されていました。
こちらは気仙沼地域出身者を中心に
復興活動を行なっている団体、
Re:us.気仙沼(リアス気仙沼)
皆さんによるものです。
震災直後から、青空美容室や、
衣類の提供などの活動をされており、
主に子どもたちが参加できるワークショップの
企画運営も精力的に行なっています。

訪ねてみると、ちょうど、
オルゴール作家の杉山三さんによる、
紙巻き式オルゴールワークショップと、
オーガニックキャンドルを販売する
ワイルドツリーさんによる
ミツロウキャンドルワークショップが
行われていました。

紙巻き式オルゴールは、
パンチで穴を開けた紙をオルゴールに通すと、
その穴にしたがってオルゴールの弦が弾かれ
音がなる仕組みになっています。
今回のワークショップでは
好きなように穴を開けたり、
アルファベットの形に穴を開けたりして、
偶然に生まれたオリジナルのメロディを
楽しめるようになっていました。

そしてこの紙は、
おみやげとして持ち帰ることができます。
「メロディを持ち帰る」のは、
いままでに体験したことのない嬉しさがありました。

ミツロウキャンドルワークショップでは、
さすが気仙沼!と思うような、
デザインセンスがさく裂していました。

メカジキ、海の子ホヤぼーや……
中にはお寿司のデコレーションをした
キャンドルを作った子もいたそうです。

雨のあがった屋外では
「あおぞらえんにち」が開催され、
射的や、ヨーヨーすくいなどを
親子連れのみなさんが楽しんでいました。

みなみまちcadoccoでは、こうしたワークショップや
イベントが定期的に行われており、
子どもたちの笑顔が集う場所となっています。


ところで、今回のゴールデンウィーク、
全国的に大雨に見舞われましたが、
ここ気仙沼でも、記録的な大雨により、
水害が発生しました。

特に地震による地盤沈下が起こった地域は冠水となり、
一時避難が必要なところもありました。
普段はあまり意識をしなかった地面の高さ。
この大雨を機に、気をつけて見るようになりました。
気仙沼では約75cmほど
地盤沈下が起こっていると言われており、
豪雨の際だけでなく、
満潮のたびに冠水してしまう場所もあります。

写真は、連休明けの月曜日に、
車から鹿折唐桑付近を撮影したものですが、
雨が上がったあとも、
水がなかなか引きませんでした。
震災から一年たってなお、
こうした復旧の必要な場所が
まだまだあるということを
強く感じさせられました。

一方で、気仙沼に来てから、
本当にたくさんの若い世代の人たちが、
復興にむけて、自分たちのできることに
取り組まれている姿と出会います。
もちろん、大人も、子どもたちもです。
私もここで暮らすみなさんと一緒に、
元気にやっていきたいと思います。