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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-09-20

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・ある時代に、それこそ夜の目も寝ず、
 半導体の開発競争の最前線で
 仕事をしまくっていた方の話を聞く機会があった。
 いやぁ、肉体的にも精神的にも究極の追い詰め方で、
 いまの時代だったら問題になっていたタイプの凄みだった。
 そういうある種の激しい「時代劇」のような物語のなかで、
 何度か繰り返し語られた思いがあった。
 それが「差別化をしたかった」ということばだった。
 「よそと同じじゃ、勝てないどころか負けてしまう」と、
 いつでも考えていたというのだ。
 なにかが成功してうまくいっているときにも、
 「このままじゃ、やがて追いかけてこられる。
 ここを抜け出す差別化ができないといけない」と、
 次にやることをいつも考えていたそうだ。
 ま、かなり昔のことだし、ドッグイヤーと呼ばれるような
 半導体の競争の時代だし、特別の厳しさがあったのだろう。
 ぼくなんかじゃ無理だったろうなと思いながら聞いていた。
 が、共通するところはある、とも考えた。

 「差別化したい」という表現ではないけれど、
 ぼくも「同じになっちゃう」ことをいつも心配してきた。
 一見ちがって見えるようなものごとでも、
 「よく考えたら同じ」という場合がよくある。
 かなりの人が、かなりの仕事が、
 「それ同じようなものだよ」と言われるようなことに
 気づいてないケースが多いのだ。
 なにかをやってるとき、まずは、
 「ほとんど同じだな」ということに気づくことが大事だ。
 「同じ」であることがわかって、はじめて、
 そこから抜け出す「ちがい」の苗床が見えてくる。
 お手本があることも、まねすることも否定はしないけど、
 「同じになっちゃう」というのは、食いっぱぐれやすい。
 半導体競争を必死で戦ってきた人とはちがうけれど、
 「同じことやってたら、取り残される」ということは、 
 ぼくも、小さなリーダーなりに考えていたと思う。
 毎日、できるだけたのしくは過ごしたいけれど、
 「同じ」すぎることに気づけなくなるのは、危うい。
 だいたい、究極の安定というのは「永遠の止=死」だから。
 「差別化=差異」で食っていこうと思うなら、
 差異の無さに敏感になるところから始めよ、だと思った。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
やさしく、つよく。そして「おもしろく」とは差異のことだ。


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