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ほぼ日刊イトイ新聞

2025-04-06

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・子どものころから、「国語、算数、理科、社会」って、
 「中七・下五」みたいに憶えていた。
 上五に季語を入れたら、そのまま俳句になる。
 「花曇り国語算数理科社会」「散る桜国語算数理科社会」。

 この主要四科目という考えは大人になるまでずっと続いて、
 どんな人でも、どういうことをやるにしても、
 基本的にみんながみんな学ぶべきものとされている。
 そういえばそうだと、ぼくも思ってきた。
 生きていく道がどう分かれるにしても、
 国語算数理科社会の基本のところができてないと、
 本人も、その人の周りも、都合のよくないことになる。

 ただ、このごろ、強く思うようになったのだけれど、
 いまの時代、ほんとうに主要な四科目というのは、
 国語算数理科社会のようなもの、ではないのかもしれない。 
 つまりその、とても逆説的に言うならば、
 中学までの「国語算数理科社会」に、
 いつでも満点を取る人がいたとしたら、と考えてみる。
 それはたいしたことだと思うのだが、
 社会では、学校とちがって情報機器の持ち込みも自由だし、
 カンニングも相談も時間制限さえもあんまりない。
 「だれの助けも借りずに、即座になにか答えられた」
 としても、それはあんまりありがたいことではない。
 いっそ、うまく助けを借りられる人のほうが、
 よっぽど役に立ったりもすることも多い。
 せっかく満点取ったのに、
 満点取るためにすっごくがんばったのに、
 あんまり求められていないということになるのか? 
 うん、言いにくいけど、そうかもしれない。

 国語算数理科社会の満点よりも、
 じぶんのこころをよく見つめられているかどうかとか、
 じぶん以外の人のことを、思いやれるかとか、
 厳しい状況になったとき生き抜く力を出せるかとか、
 人がどういうときにいい気持ちになるのかとか、
 大昔から人に問われているようなことこそが、
 みんなからも、じぶん自身からも求められている。
 ますます、そんなことを思うのだ。
 それをどう身につけるか、まだ、よく整理できてないけど。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
人から学ぶことや、人と語り合うことは、大昔からあるよね。


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