なんでもかんでも「評する」ことはない。

糸井重里

・どうなんだろう、いま地球上に生きているほとんどの人は、
 なにか食べたとき、なにかを見たとき、なにか聞いたとき、
 ほとんどの場合「評する」ということをしてないと思う。
 それは、ぼく自身にしたってそうだ。
 いちいち見たり聞いたり食べたりして、
 なにか感想やら批評やらを言うことはない。
 じぶんについては、それほどないと思う。
 いや、ないとも言い切れないな、あることはある。
 わりとあるほうじゃないかな、とさえも言えるか‥‥。

 そういう「評する」のを、直したい。
 いいにしても悪いにしても、なんでそんなに「評する」の。
 これは、じぶんばかりじゃないな、
 インターネットの世界では、たくさんの人が、
 ひっきりなしに「評する」んだよな。
 みんなが「海原雄山と山岡士郎」みたいになってる。
 そういう風潮を察知して「上から目線」ということばが
 発明されたのかもしれないね。
 音楽にしても、ものすごく「評する」よね。
 サッカーがそういう傾向が強いかなぁと思ってたけど、
 いまだと野球も「評する」が多くなってるよなぁ。

 子どもは、あんまり「評する」ことはないよ。
 まずけりゃ食べないか、がまんして食べるかだ。
 ややこしく「評する」ことはないよね。
 遊びに連れて行かれても、つまらない場合には寝ちゃうし、
 おもしろい遊びだったら、いつまでもやめないで遊ぶ。
 犬とかも、そうだよね。
 
 たぶんなんだけど、「評する」っていうのは、
 とても「大脳的なたのしみ」なんじゃないかなぁ。
 そっか、いま流行りの「言語化」をしているのかもね。
 いったん、ことばという記号に置き換えて考える。
 そのほうが複雑なことを考えられるし、深みにも行けそう。
 言ってみれば、「利口系」のたのしみかもしれない。
 子どもはもちろん、犬も、ぼやっとしているじぶんも、
 ぜんぜん「評さない」もんなぁ。
 まぁ、どっちもあってもいいとは思うんですけどね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼく自身は、「評する」を小盛りにしていきたいと思ってる。