・しかしまぁ、もう5日間ほど、ほぼ外出していない。
もともと旅の予定があったところだったので、
東京での用事を入れてなかったから、
こういう「空白」のような時間ができてしまったのだ。
咳も鼻水もなんとか収まったようなので、
ぼちぼちと動こうとは思うのだが、
こんな時間もあってよかったとは、思っている。
このところの「ほぼ日」では、
夏井いつきさんとの対談が連載されていたので、
あらためてそれを読んでいると、俳句に近づきたくなる。
それにしても、ほんとに俳句がむつかしいんだよなぁ。
俳句について考えることのほうはたのしいのだが、
実作がなかなかうまくできていかない。
しばらく作らない作れない日が続いていたのだが、
だれに見せるわけでもないのだからと、
また少しずつ手帳に書き記すようになった。
まるで罰ゲームのような心持ちで、
ひり出した一句をあるところ宛てに応募した。
釣りをはじめたときに、めんどくさくても、
ライン(糸)の結び方をおぼえるのと同じようなことだ。
とにかく季語が大問題なのだ。
季節をふくんだことばを、ふだんから心に思っていない。
「梅雨の季節だし、紫陽花かな」とか考えついても、
いままで紫陽花についてなにか思っていなかったのが、
じぶんにすっかりばれてしまっている。
「なにをいまさらあじさいだよ」いや、もうしわけない。
さまざまな季語を、俳句を作るための都合で、
「使う」ために持ち出してきたような気がしてならない。
季語は使うものじゃなくて、思うものではなかったのか?
いまだったら食べものとしてスイカがあったりする。
いいよね、季語としてスイカは堂々たるものだ。
スイカをなにか季節の実感として思ったことはあったか。
いやぁ、けっこういつの季節も売ってるし買ってるし、
食べたいと思ったら季節を考えずに食べてるしなぁ。
というような、初心者ならではの雑念と格闘しながら、
いちおう毎日、なにかしら俳句のことをしております。
「犬のいる暮らし」のように「季語のある生活」かなぁ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
TOKIOにも西瓜の裡の日差しあり。いまつくった駄作です。