<怖いものの順番。>
ぼくは怖がりです。
おそらく、他の人と同じくらいではあると思いますが、
強い人間ではないのは、
じぶんがいちばんよく知ってますし、
怖いことや怖いものに近づくのも苦手です。
もうひとつ、ぼくは好奇心の強い人間です。
怖いはなしや、怖い映画、怖い遊び、
ことによったら怖い人についてさえ、
「怖いけど、知ってみたい」と思うところがあります。
格闘技が好きだったりするのも、
そういうところと関係あるのかもしれません。
だから、じぶんが安全な場所にいるとわかれば、
目玉や耳だけは、怖いもののほうを向いたりします。
そういうぼくですから、いまのような状況は、
ものすごく怖いです。
ここまでが長い悪夢であったらどんなにいいか、
目が覚めたら、おなじみの日常がそこにあったら、
どれだけうれしいか‥‥。
そういうぼくですが、
「怖い」気持ちと「好奇心」は、
どんなにがんばってもなくせない、と思って、
そのときそのときの「怖い」の正体を、
じぶんに問いかけてみるのです。
「なにが怖いのだろう」と、考えてみます。
考えると、いまの「怖い」気持ちというのは、
いくつもの要素のからみあったものだとわかります。
あちこちから借金を重ねて、
借金から逃げるために、また借金をくりかえす、
というような「多重債務」という状態がありますが、
そういう人と同じようなものかもしれません。
複雑でややこしくなってしまって、
どうすればいいのか道筋が見えないので、
自暴自棄になってしまうような人もいます。
そういう状態と似てると思うんです。
もう、「なにが怖いのだろう」ではなく、
「なにもかも怖い」という漠然としていて
しかも大きな絶望感につながってしまうのです。
これは、キツイです。
ぼくのなかにも、そういう部分もあります。
なんといっても、もともと怖がりなんですからね。
こういう場合、他人の立場からだとアドバイスできます。
「まず、なにが怖いか、ひとつずつ言ってごらん」
ということから始めるでしょう。
ひとつずつなら、言えます。
はっきりとした、怖い思い出が残っていますから。
●地震が怖い。
どこで地震にあったかによって、
怖さの程度はちがうかもしれませんが、
地震が怖かったという記憶があります。
そして、それが、
「またくるのではないか?」という怖さがあります。
地面が揺れて、建物が壊れたりすることを、
想定して暮らしていなかったのですから、
びっくりもしますし、どうなるのかという恐怖もあります。
あのときと同じ地震が来たら、どうだろう?
いちばん被害の大きかった地域の人たちは、
基本的には、同じ場所にはもういないはずです。
より安全なところにいるので、
建物の倒壊などによって起る事故からは逃れられます。
最も大きかった津波の被害に遭った方も、
最大の津波が押し寄せてくる場所だけは、
もう離れていると思うので、
津波の被害は回避できそうです。
地震のときと、同じ家にいまも暮らしているとしたら、
同じくらいの地震があった場合には、
同じくらいの被害を受ける可能性はあるかもしれない。
ぼくの家の場合だったら、大量の本が崩れ落ちたとか、
棚の中の陶器類が半分くらい割れたとかです。
でも、同程度の地震がもう一度あっても、
もうそのための対策はしてありますから、
ものの倒れてくるような場所にいなければ、大丈夫です。
むろん、生物として感じる怖さはありますけどね。
地震対策の基本で、しっかりと身を守る。
火災の可能性をなくすため、
火の元にじゅうぶん注意を払う。
地元のそれぞれの避難場所に逃げる。
ということで、いちおうは対処できるとわかります。
お風呂に入ってるとき、どうしましょう
というようなことは、各自、近くに服を置いておくとか、
工夫したらいいだけのことでしょう。
いま言ったのは、地震が、
この前の大きな地震と同じ大きさだった場合です。
地震観測史上最大、とも言われる地震が、
もういちどきたらという仮定です。
でも、ここまでの覚悟はできると思うんです。
だとしたら、いままでの気象庁の発表していた、
「余震は、本震よりも小さくなる」という経験則もあるし、
地震そのものについての怖さは、
なんとか迎え撃てると思えるのです。
こんなふうに「怖さ」でなく
「安心」のほうに向けてものごとを語ると、
必ず「それを読んで油断した人が事故にあったら、
どう責任をとるのだ。もっと警戒しろ」と言われます。
いちおう、そのことも、付け加えておきます。
誰も、油断していいなんて言ってないわけで。
過剰に緊張していることは、人間、できないものです。
ここまでの危険の可能性がある、と知って、
あとは、覚悟だけしておいて、
徐々に日常を取り返すしかないと思うのです。
また襲ってくる、油断するな、と過度に言いたがる人は、
復旧に向けて、道路を直している人たちだとかにも、
同じことを言うのでしょうか。
というわけで、ぼくは地震については、
ひとつ怖さの正体が見えた気がするので、
ずいぶん明るくなれました。
多重債務者でいえば、ひとつ返済の目処が立った。
というようなことでしょうか。
●原子力発電所の事故が怖い。
被災の中心にあった人たちは、
この問題について考えていることさえも、
できていないかもしれません。
大怪我や重篤な病気で治療を受けている方々は、
いま現在の命の問題が先になるでしょうから。
そういう最も緊迫した恐怖については、
ぼくは想像でしかものを言えないので、
失礼があったらもうしわけありません。
これまでの大きな震災では、東北を中心にした、
地震と津波の事故について懸命に考えることが、
わかりやすい道筋でした。
今回は、そこに原発の事故という要素が加わり、
この震災の「助ける側」だったほうの人たちにまで、
大きな影を落とすことになりました。
福島の原発事故からの避難エリアでは、
「そこにいること」にこだわっていてはいけません。
怖いとか怖くない以前に、避難することが前提ですから。
そこのエリアで想定される被害の程度について、
ぼくは専門的な知識のある人の発言を聴くのみです。
大きく考える人も、小さく見積もる人もいますが、
いまのところ、ぼくは
何人かの方々のご意見を参考にしています。
どれだけ軽微なものであるとしても、
ぼくは、30キロ以内というその範囲にいた場合は、
いまここで考えているのとは別のことを思うでしょう。
「屋内待機」は「避難せよ」ではないけれど、
事実上、動けないわけですから、
そこにいるな、という意味だと思います。
そのうえで、30キロ圏内でない場所にいる人間の、
怖さということを考えたいと思います。
ぼく自身は、東京にいます。
数字で怖さを計るわけにはいかないのですが、
まず、30キロの次に50キロ、さらに80キロ、100キロと、
恐怖の切実さは薄まっていきます。
ぼくがいま考えたり感じたりすることは、
どうしても、じぶんのいる東京都港区を、
基準にしてしまいます。
この場所に立っていながら、
事故現場からもっと近い地域の人たちのことを
想像することは、観念としてはできますが、
現実的ではありません。
ただ、最悪の事態というものがどういうものなのか、
それを知ろうとすることだけをします。
最初に言いましたが、ぼくは怖がりなので、
どこまでも続く無限の怖さなどには、
耐えられそうもないので、恐怖の大王と取引をするのです。
「それならあきらめられる」という線引きをして、
向かい合うことにします。
で、まずは、考えられる最悪の事態と、
おおいにありそうな結果について、知ろうとします。
その過程で、とても参考になったのが、
この前に紹介した英国大使館の「科学者による評価」です。
これも、じぶんの立場から、知りたくて知ったことです。
母国を離れて日本で生活している人たちが、
どういう指針をもとにして「帰るか、残るか」を
決めていくのかというのは、とても参考になる情報でした。
<視点を変えてみました。>
この発表がなされた3月15日の後、
英国大使館のウェブサイトで確認したところ、
「福島原発の状況、および、
物流、交通、通信、電力のインフラなどが
混乱する可能性があるため、
東京以北の英国人に退避を検討するよう、勧告します」
という内容が記載されました。
そして、
「原発事故については、
英国の専門家の最新の見解として、
日本政府が定めた避難地域以外では
健康への影響を心配する必要はないとしている。
(日経新聞)」
タイトルは、
「英外務省、東京以北からの退避勧告
『インフラ混乱の恐れ』」とありました。
原発事故による健康被害についての評価が、
大きく変化したというよりは、
この事故による社会的な環境の悪化、
という要素が、より強く懸念されたということのようです。
いえ、怖がりとしては、
もっとしつこく、
怖さをなくしてくれるような情報を手に入れたいのですが、
それをしていると、逆に、
「おまえが思っているより、ずっと怖いぞ」
というふうな扇情的とも言える論説に当たったりします。
探せば出てくるのは、玉と石の両方で、
あとは、論の立て方や、これまでの発言などを、
素人なりに判断するしかありません。
いまのぼくの個人的な傾向としては、
「脱原発の立場なのだけれど、恐怖を煽らない」
という考え方の人と、
「異なった立場の人を攻撃しない」
というような姿勢の人の意見を重視しています。
「ほらみたことか!」という人の意見については、
あとでその人の言う通りになったとしても、
ぼくは選びません。
こういうときには、今回一貫してとっている
「右往左往するのではなく、右往で判断を止める」
という考え方です。
ですから、もちろん、
「わたしは納得できない」「おおいに反対です」
という考えがあることも承知しています。
何度も言っているように、
「じぶんのリーダーは、じぶん」ですから、
危険をともなうことについても、
最後はじぶんがジャッジしてください。
今回の、原発事故の怖さについては、
ぼくの場合は、ここまでに知ったことだけでは、
完全には解消されていません。
これが正直な気持ちです。
しかし、「最悪の事態は地獄になる」
というような意見を、まるまる信じたとしても、
どうしようもないではありませんか。
生きる気は山ほどありますが、
希望をなくしながら生きるのは、難しすぎます。
それに、こんどの震災において、
助ける側にいるはずの東京にいて、
「最悪の中の最悪」のことばかり考えているのは、
じぶんも含めた、復興に向けてがんばっている人への、
礼を欠いているようにも思うのです。
だって、いまも、道路を直している。
こうしている間にだって、避難場所に届ける荷物が、
どこかを移動中なんです。
よくなろうと思って、みんなが必死になっている。
情けないことに、まだ怖さは残るけれど、
「覚悟できる範囲である」というふうに、
ぼくは決めました。
不謹慎に聞えるかもしれませんし、
喩えがずれてるような気もしますが、
将来に、何年か寿命が縮まるということなら、
いま命があることを喜んで、
その被害を受け容れようということです。
安くない買い物ですけれど、
じぶんという人間のリーダーであるぼくは、
そこまでは覚悟したということです。
ただ、他の人たちにも、
それを強要するつもりはありません。
ほんとうは、30キロ圏、50キロ圏、80キロ圏、
という地域が問題なのに、
もっと離れた東京で、
こんなに怖がってちゃ、だめじゃん、
という気持ちもおおいにあります。
うーん。実際には、じぶんの怖さや心配というより、
おおぜいの人間に襲いかかってくる災難への
怖さなのかもしれません。
まだ、そのあたりは、わかっていません。
それはそうと、怖いの怖くないのの問題でなく、
東京を離れる人も出てきているようです。
さみしくなるな、という感覚もありますが、
それはそれでいいと思ってます。
こんな状況で、「あらゆる判断は、尊い」と思うのです。
詳しい説明も、深い論理も不要でしょう。
誰でも、ありうる判断だと思います。
「おれは、なにがなんでも東京にいるから!」
というような義侠心というか美意識みたいなものは、
ぼくは捨てようと思っています。
こういう非常事態では、
なんにせよ、かっこよくないですし、
たいていのことは肯定したいのです。
ちょっと前に、これからの時代に必要になるものは
「寛容」ではないか、と書いたばかりですが、
こんな事態になって、それを実感するとはねぇ。
ただ、ぼくは、どうやら東京にいたいようです。
そうすることが、なんにつけ、
ぼくのなけなしの力を最大限に発揮できそうだし、
それが、じぶんのためにも、
ぼくの好きな人たちのためにも、
いいんじゃないかと思うからです。
長くなってしまいましたが、
ぼくは原発の事故への怖さについては、
はなはだあいまいな、のらりくらりとした
身のかわしで対処しています。
じぶんが青年だったころに、大人たちを見ていて、
「なんだかなぁ‥‥」と残念に思っていた
「しょうがないじゃないか」という態度です。
こののらりくらりの状態を、
少しでも「怖くない」に変えたくて、
よく読んでいる人の発言やツイートを紹介しておきます。
・福島原発の放射能を理解する
(物理と工学からの見地)
Ben Monreal教授
カリフォルニア大学サンタバーバラ校
http://ribf.riken.jp/~koji/monreal.pdf
ツイッターでは、
この人のツイートを知ったのは、うれしかった。
・早野龍五さん
http://twitter.com/hayano
スカッとする。正直な人だと思っています。
・伊東乾さん
http://twitter.com/itokenstein
個性がしっかり匂ってくる。法学者なんです。
・玉井克哉さん
http://twitter.com/tamai1961
ゆっくりペースですが。
・東大病院放射線治療チーム
http://twitter.com/team_nakagawa
街の人の感覚をもって発言していると思う。
・佐々木俊尚さん
http://twitter.com/sasakitoshinao
今後、読みたいと期待しているのがこの人。
・武田徹さん
http://twitter.com/takedatoru
この反対の立場の人たちも紹介しないと
不公平だと思われますか?
それは‥‥ご自分で探してください。
いくらでもありますから。
そちらを読むのも、その意見に従うのも自由です。
「あらゆる判断は、尊い」です。
でも、その暗さに、人びとを巻き込まないでね。
ぼくは、右往左往ではなく、
「右往する」と決めているので。
ここまで読むと、ぼくの怖さの感覚が、
なんとなくわかってきたのではないでしょうか。
この先に、まだ、よくよく探せば、
●生活スタイルが変わってしまうのが怖い。
●さまざまな価値あるものを失いそうで怖い。
●仕事がなくなってしまうのではないかと怖い。
●人や動物と別れ別れになりそうで怖い。
などなど、いろいろ、ちょっとずつ、
さまざまな音色で、
耳のなかで鳴ってくれているのではないでしょうか。
そのへんについては、あとで考えることにしましょうよ。
そのうえで、ぼくがもうひとつ、
怖いものだなぁと思っているのは、人間。
●人びとが憲兵のようになっている怖さ。
監視しあい、注意をうながし、告発し、
ときには私刑まで引き受ける。
たぶん、戦争のときの社会も、
そんなふうだったのかもしれないと想像します。
この怖さについては、
ぼくの一生を賭けるようなテーマですので、
ここで一度書くということではなく、
ずっと続けて行っていきたいと思っています。
イエス・キリストが、唯一、怒った相手が、
「律法学者」や「パリサイ人」だったということ。
親鸞さんが残した最大の記録が、
「歎異抄」、異を歎くというタイトルだったこと。
ほんとうに、切ないものです。
人間をいちばん苦しめるのは、実は、
人の自由を奪う人びとではないかと思っています。
長くなってしまいました。
どたばたしながら、とぎれとぎれに書いたので、
なんだか読みにくかったりしたら、ごめんなさい。
「しょうがないんじゃない?」というようなことで、
寛容にお許しください。
NO GINGER!
(2011年3月19日 11:30更新)
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